2019年イースターのごあんない ※終了しました
- 「わたしはよみがえりです。いのちです。」 -

イエスは彼女に言われた。
「わたしはよみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者はみな、
永遠に決して死ぬことがありません。
あなたは、このことを信じますか。」
-ヨハネの福音書11:25-26-

生きる意味があるのか

三浦綾子さんの「氷点」を読むと、辻口啓造院長が、明日は退院するという青年の自殺の話しをしています。28歳の正木次郎は軽い肺結核で入院したのですが、完治し、銀行員としての復職も決まっていたのに、浮かない顔をしていました。それを見た辻口医師は、自室に呼び、「これからじゃないか」といいます。正木青年は「治ったら一体何をしたらいいのですか。仕事って何ですか。6年間そろばんをはじいたり、お金を数えてきました。そんなことは機械だってできます。こうして自分が二年間休んだって、銀行はちっとも困りません。自分が休んでいる間に市内だけでも支店が二つも増えて繁盛しているのです。僕が休もうが休むまいが同じですよ。つまり僕の存在価値はゼロなんです。結局人間は死にます。正木次郎をどうしても必要だと言ってくれる世界はどこにもないのに、うろうろ生きていくのは恥辱だ」と遺書に残し、自死します。

死んでも生きるいのち。

イエス様の愛されたラザロは、病気になり死にました。悲しみの中にあったラザロの姉妹、マルタとマリアの所には、大勢のユダヤ人が集い、慰めようとしていました。そこに来られたイエス様に、マルタは、「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」(ヨハネ11:21-22) といいます。このマルタに対するイエス様のことばが、冒頭に記された、「わたしはよみがえりです。いのちです。」ということばです。

イエス様は死んだラザロを生き返らせましたが、このラザロも地上の人生を終える時がきます。人が死んで終わりなら、正木青年と同じ様に、ラザロはいのちの意味も価値も見いだせません。しかし、イエス様がラザロをよみがえらせたのは、イエス様が教えたことばは、人を生かし、人の人生に価値を与え、いのちを与えるのは神のことばであることを現すためでした。イエス様のことばに信頼し、そのことばに教えられ、従って生きる時、神のいのちに結び合わされて生きる者となります。イエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架に付けられ、死に、三日目によみがえられたのは、イエス様のことばを信じて生きる者には、生きている時から死に至るまで、また、死んでもなお神と共に生きるいのちを与えるためなのです。その人は死んでも生きるのです。

キリスト教朝顔教会牧師 三浦春壽

イエス・キリストの受難を思う夕べ

4月19日(金) 19:00〜20:30ころ

聖書の御言葉と、讃美と、パイプオルガンの調べにより、イエス・キリストの受難を覚えるひとときです。(礼拝として行います。クリスチャンの方には、聖餐式があります。)

イースター礼拝

4月21日(日) 10:30〜

イースターを記念して祝う礼拝です。教会が初めての方もぜひお越しください。